【前編】宮城が生んだ奇跡の米、ササニシキ。島津麹店・六代目が語る、その誕生と美しさ
石巻で糀と向き合う日々の中で、私にはどうしても譲れないものがあります。
それが、宮城県産ササニシキ100%というこだわりです。
明治42年の創業から代々、島津麹店はこのお米だけを使い続けてきました。
他の品種を使うという選択肢は、私たちの中にありません。
今日は、なぜここまでササニシキにこだわるのか、その理由を前編・中編・後編の3回に分けてじっくりお話ししたいと思います。
ササニシキとは、どんな米なのか
ササニシキは、1963年(昭和38年)に宮城県古川農業試験場(現在の古川農業試験場、大崎市)で誕生した品種です。父に「ササシグレ」、母に「ハツニシキ」という宮城生まれの品種を持ち、両親の名前から一文字ずつを取って「ササニシキ」と名付けられました。
誕生から間もなく、その食味の良さと収量の多さから評価が高まり、昭和60年(1985年)には作付面積が全国第2位にまで拡大。コシヒカリと並び「東の横綱」と呼ばれるほどの、日本を代表する米へと成長しました。かつては東北から関東まで広く栽培され、多くの食卓を支えてきた歴史があります。
試練を越えてきた、繊細な米
しかしササニシキには、大きな弱点がありました。
茎が細く倒れやすいこと、いもち病や冷害に弱いこと。
その弱点が平成5年(1993年)の記録的な冷害で露わになり、東北を襲った深刻な不作をきっかけに、多くの産地が耐冷性の高い「ひとめぼれ」へと品種を切り替えていきました。
以来、全国的にはその作付面積を大きく減らし、今では全国の作付面積の1%にも満たない、希少な品種となっています。誕生の地である宮城県内でさえ、栽培する農家は限られる存在になりました。
けれど私たち島津麹店は、この米を手放すという選択をしませんでした。
効率や収量ではなく、味と、代々受け継いできた製法を守るために。
栽培が難しいからこそ、この米を守り抜いてくださる石巻の農家様との関係が、
私たちにとって何より大切な財産になっています。
六代目が惚れ込んだ、稲の姿
私がササニシキを語るとき、味の話の前に、まずお伝えしたいことがあります。
それは、この稲の姿そのものが美しいということです。
ササニシキの稲は、他の品種に比べて背が高く、茎が細い。だからこそ風雨に弱く、倒れやすい。けれど、その頑張っている姿がとても愛らしく、健気に映るのです。そして実った穂のカーブは、他の品種よりも柔らかく、美しい弧を描きます。
栽培のしやすさだけを求めるなら、もっと丈夫で扱いやすい品種はいくらでもあります。それでも私たちがササニシキを選び続けるのは、この繊細さの中にこそ、本物の味わいが宿っていると強く感じてるからです。
倒れそうになりながらも実りを結ぶ稲の姿は、110年余り、震災を越えてもなお糀をつくり続けてきた私たち自身の姿と、どこか重なって見えます。
「ササニシキ」という、心地よい響き
名前にも、私は特別な思いを持っています。ササシグレとハツニシキ、宮城で生まれた二つの品種の名を受け継いだこの名前は、音の響きがとても心地よく、口にするたびにどこか凛とした佇まいを感じさせてくれます。
派手さはなくとも、静かに、確かに、人の記憶に残る名前。
それは、私たちが大切にしている「静かに、待つ、ととのえる」という島津麹店の姿勢そのものと重なる気がしています。
石巻という土地とササニシキ
私たちが拠点を置く石巻は、北上川が育んだ肥沃な土壌と、豊かな水に恵まれた土地です。仙台藩の時代から米どころとして知られてきたこの地は、ササニシキが誕生した宮城県の中でも、良質な米づくりが受け継がれてきた地域のひとつです。
千石船で米俵を集めた時代から始まった島津麹店にとって、石巻の米、そしてこの土地で育つササニシキは、単なる原料ではありません。この土地の記憶そのものだと、私は思っています。
なぜ、今あえてササニシキを選ぶのか
効率を求めるなら、収量の多い品種、栽培しやすい品種を選ぶ方が、経営としては合理的なのかもしれません。それでも私たちがササニシキを選び続けているのは、糀づくりの原点が、良い米から始まるという確信があるからです。
華糀も、生糀も、味噌 も、そのすべての出発点にあるのは、この一粒のお米です。
次の中編、後編では、その米がどのように糀へと生まれ変わっていくのか、栽培から仕込みの現場まで、余すところなくお伝えしていきます。
次回予告
中編では、ササニシキという難しい米と真剣に向き合う、石巻の契約農家の皆様との関係、そして収穫量が1割も落ちてしまうという栽培の厳しい現実、そして島津麹店の職人がセイロで丁寧に蒸し上げる仕込みの様子についてお話しします。
私たちが、なぜそれでもこの米を「選び続ける」のか。その理由に、少しずつ近づいていきたいと思います。
島津麹店 六代目